21年間勤務した内閣府を辞めて、ローカルフードデザイナーになった理由

きっかけは、ランチブログを始めたことでした。

高校卒業からひと月で国家公務員になった自分は、自宅と霞が関にあった当時の経済企画庁を往復する日々を過ごしていました。

片道1時間半も通勤電車に揺られていたこともあって、お昼休みは働くためのエネルギーを補給すると同時に、帰りの電車で地元の駅にたどり着くまでの体力も蓄える一時間でした。

そんな貴重な時間でしたが、段々と単にお腹を満たすだけの一時間が「もったいない」と思うように変化していきました。美味しいはずのご飯を、愚痴や噂話と共に食べるのが好きじゃなかったこともあって、一人で外に出て界隈の飲食店で過ごすようになりました。

特にカウンター席で食べることが多かったのですが、それは一人客だからという以上に、料理を作る姿を見るのが好きだったから無意識のうちに選んでいたんだろうと。思い返すと事務職をしていた自分はゼロからスタートして料理が完成するまでの、ものづくりの過程に惹かれていたのかもしれません。もちろんこの時間が自分にとって大きな勉強になったことは言うまでもありません。

そんな日々変化する街の様子を、ランチのフィルターを通して残したい。当時、流行の兆しを見せていたブログで『ひるどき日本ランチ日記』を始めたのは、2004年の元旦のことでした。

大きくて小さな役所という世界の中で時間を過ごしていた自分にとって、ブログを書くことは世の中と繋がる唯一の手段。「世の中のためになる仕事をしたい」と思い国家公務員になったものの、学歴ヒエラルキーが優先される世界では高卒の自分に回ってきたのは、内部管理などのいわゆる雑務仕事ばかり。もちろんそれもまた大切な仕事ではあるのですが、世の中に尽くす機会はもちろん、外で働く方とお会いする機会すらありませんでした。

時には電車に乗って銀座や新橋、時には築地まで足を伸ばしランチを食べる。

直接は仕事に関係ないかもしれませんが、こうした気づきを重ねる日々がきっかけで、色々な職業を持ちながらランチブログを書く方と出会うことができ、昼休みの一時間で視野と人繋がりを広げることができました。文章の書き方も写真の撮り方も知らなかった自分が、少しずつながら「伝える」ことを理解できたことは、今の仕事をしている上で大きな財産になっています。

幸運にも出会えた、津軽地方の伝承料理が持つ心揺さぶる味

そんな日々を過ごすうちに、ブログを介して参加したのが「津軽の伝承料理を食べる会」。西新橋のお店にズラリと並んだ津軽の伝承料理は、どれも暖かなオーラに包まれて輝いていました。

それは他人によって照らされる灯りというよりは、郷土の中で一つの料理が生まれ育って来た過程で蓄えられて来たエネルギーが、自分自身で光を放っていたように見えました。作り手と食べ手の立場で携わってきた地域の方が、料理に対して寄せる信頼と自信のようなものを感じました。

マダラの骨や内臓、余り物、捨てるものという意味を持つ「じゃっぱ」を無駄なく使い、コク深く温かい味に凝縮された「じゃっぱ汁」。アンコウの身に同じくアンコウの肝を和えた「あんこうの共和え」。そして、七草粥の食文化が一般家庭に普及する過程で、七草の部分だけがおかずとして調理された料理として誕生。地の根菜や塩蔵によって保存されたワラビやゼンマイを細かく刻み、味噌味で煮込まれた「けの汁」。当時撮影した写真を見るたびに、未知なるおいしさに出会えた感動が蘇ってきます。

一つ一つの丁寧な仕事で作られた料理は、今時のレンチンでは生まれることがない味。地域に暮らす人々全員の手仕事が施されたといっても過言じゃない料理。「心揺さぶる味」という言葉がありますが、初めて触れたその味は自分にとってのそれでした。

青森に導かれて、運命に導かれて

※「文献だけでは情報が広範に伝わらない」という思いで津軽料理遺産プロジェクトのウェブサイトを制作。料理写真撮影やブログの制作などを、仕事の空き時間に一人で取り組んでいました。今もデジタルアーカイブ&情報発信元としてサイトを管理しています。

当時、料理を作る側のことを一つも知らずブログを書くことに、違和感を覚えていたこともあって、自己啓発としてフードコーディネーターの資格を取得していました。そんな所以もあって、このイベントで知り合った方から、津軽地方の伝承料理の普及と商業化にまつわる事業のお手伝いをする機会をいただきました。

最初は津軽地方の伝承料理の中から10品程度を選んで、◯◯御膳というメニューを作るというものでしたが、そのために文献を読み漁って、自分が「食べたい!」と思った料理をリストアップすると、その候補はなんと400弱。 ベッドタウンで生まれた自分は「これだけの種類があるなんて……すごい!」と圧倒され、もちろんこの中から選ぶことはできませんでした。

むしろ、個々の料理に宿るストーリーを伝えたい。そう思い、伝承料理を食べて語り継ぐ「津軽料理遺産」プロジェクトは動き出しました。

津軽に初めて訪れた方に「津軽ならではの料理」を、どうやって食べていただくか?という思いをベースに、料理の特長や料理を提供する「伝承店」を紹介するリーフレットや、伝承店の目印となる「招き布」といったツールを制作しました。

携われば携わるほど、東京にいながらにしてプロジェクトを進めることが困難になり、無茶は承知で青森県庁への転勤を希望して移り住むことができました。春夏秋冬、その地で四季を過ごさないと伝承料理の凄さは理解できない。そう感じたのが一番の理由でした。

確かに書籍や資料を読めばある程度の状況や背景は分かるのですが、日々、八百屋さんや魚屋さんに並ぶ食材のことまでは書き残されていませんし、何より、そこに暮らす生活者の視点に立たないと料理が持つ本質は理解できない。たっぷりと雪が降り積もる冬の日、切れた灯油を買いに行くことで、身体を温める料理の価値が少しずつ理解できるようになったのです。

これまで、伝承料理を主役にしたプロジェクトは、日本では取り組まれていませんでしたが、多くの方に普及するミッションの成果は一定のレベルまで達し、伝承料理のメディアとして当時開発した駅弁「ばっちゃ御膳」や、東北新幹線・新青森延伸を記念した数多くの駅弁のプロデュース。あるいはご当地菓子の開発など。東京に住んだままの国家公務員には絶対にできない経験をすることができました。もちろん、これが今の自分の骨格となっています。 

あの日、何もできなかった自分ができた唯一のこと。そして福島との縁

2年間過ごした青森での生活は一旦幕を下ろし、東京に戻ってきた翌年。東日本大震災は発生しました。内閣府は元々事業官庁ではないので、直接的に支援する機会は非常に少なく、自分には被災地の食材や料理を積極的に食べたり、そうした料理を出すお店をブログで紹介することしかできませんでした。

それから約1年後。国家公務員ながらにランチブログを書き続ける理由を取材していただいた『サラメシ』の放送とほぼ同時のタイミングで、東日本大震災事業者再生支援機構に出向。そこで知り合ったのが福島県の「かーちゃんの力・プロジェクト」でした。

原発事故の避難対象地域に住んでいたかーちゃんたちは、避難先である仮設住宅で悶々とした日々を過ごしていました。避難前は自らが食材を育て台所に立ち料理を作ることで、食材づくりと食文化の伝承を担っていた女性達が取り組んでいたことは、バラバラになってしまったコミュニティを食で結ぶこと。想像できないほどに大きな被害を受けていたにも関わらず、たくましく前に進んでいたのです。

活動内容を伺って「自分にできることは何か?」と考え抜いて出した結論は、伝承料理の振興・普及のために青森で過ごした経験を活用することでした。

今なお福島の地に住むおばぁちゃん方から、伝承料理に纏わる自らのお話を伺ったり、料理撮影をしたり。編集役としてプロジェクトにお手伝いすることで、地域の中で連綿と受け継がれる知恵と工夫を、パンフレットや開発したお弁当をプロモーションツールに変換。多くの方に伝えることで喜んでいただけました。

こうした経験を共有することが、自分の人生におけるミッションでは?と考えるようになったのはこの頃でした。
 「汁に入れる団子は、餅米を3割、うるち米を7割。ずっとこうやってきた。」
 あるおばぁちゃんが笑顔と共に生地をこねながら教えてくれた一言。これを記録に残していくことがミッションだと。

ローカルフードデザイナーという職業

「伝承料理をはじめとした地域の食材や食文化を商品・サービス、あるいはプロモーションを通じて知ってもらうことで人と地域を繋ぐ」

2015年に辞表を提出して、4月にローカルフードデザイナーという肩書で始めた仕事は、こういった役割です。

決して食材や調理法が豊富だったとは言えない時代を生き抜くために、食文化を作り育むことで戦ってきたおばぁちゃんやおじぃちゃんから、当時の暮らしぶりに関する話を伺う機会はあまり残されていません。その一方、短期間で消費されるファッションフードは、これからもどんどん作られることでしょう。

だから自分は、伝承・郷土料理をはじめとした地域の食材・食文化が持つ本当の価値を伝え残し、長く愛してもらえるため商品やサービス、コンテンツの企画開発や、価値を届けるプロモーションを担うことを自分の職業として選びました。

国家公務員という立場では、結果的に多くの方のために活動することができなかったので、むしろ、今のほうが公に貢献できている。そう確信していますし、今もその初心を忘れずに一つひとつの仕事に取り組ませていただいてます。