きっかけは、ランチブログを始めたことでした。

 商業高校を卒業してすぐに国家公務員になった自分は、自宅と霞が関にあった当時の経済企画庁を往復する日々を過ごしていました。
 
片道1時間以上、通勤電車に揺られていたこともあって、お昼休みの1時間は貴重なエネルギー源。午前中の空腹を満たしつつ、帰りの電車に乗るまでの時間を耐えられる体力も補給していました。
 
そんな貴重な時間でしたが、段々と単にお腹を満たすだけの1時間が「もったいない」と思えるようになっていたのです。美味しいはずのご飯を、愚痴や噂話と共に食べるのが好きじゃなかったこともあって、一人で飲食店の扉を開けるようになっていったのです。
 
昼休みを駆使して、電車に乗って銀座や新橋、時には築地まで足を伸ばしランチを食べる。日々変化する街の様子をランチのフィルターを通して残したい。当時、流行の兆しを見せていたブログを始めたのは、2004年の元旦のことでした。
 
役所という大きくも小さな世界の中で時間を過ごしていた自分にとって、ブログを書く行為そのものが世の中と繋がる唯一の手段。漠然なりと「世の中のためになる仕事をしたい」と思い国家公務員になったものの、高卒の自分には内部管理の仕事が回ってくることがほとんどで、仕事で外で働く方とお会いする機会すらありませんでした。

それがきっかけで、色々な職業の傍らでランチブログを書く方と出会うことができ、短い昼休みの一時間をご一緒させていただくことで、視野と人繋がりが広がっていったのです。文章の書き方も写真の撮り方も知らなかった自分が、少しずつながら「伝える」ことを理解できたのは、きっとそうした方に「自分が食べたランチがおいしかった」ことを伝えたいという思いに他ならなかったんだと思います。

幸運に出会えた、伝承料理の「心揺さぶる味」。

そんな毎日を過ごすうちに、ブログを介して参加した「津軽の伝承料理を食べる会」。西新橋のお店にズラリと並んだ津軽の伝承料理は、どれも暖かなオーラに包まれて輝いていました。
 
それは他人によって照らされる灯りというよりは、料理として生まれ育って来た中で蓄えられて来たエネルギー。作り手と食べ手の立場で携わってきた地域の方が、料理に寄せる静かな自信のようなものを感じたのです。
 
マダラの骨や内臓、余り物、捨てるものという意味を持つ「じゃっぱ」を無駄なく使い、コク深く温かい味に凝縮された「じゃっぱ汁」。
アンコウの身に同じくアンコウの肝を和えた「あんこうの共和え」。
そして、七草粥の食文化が普及する過程で七草の部分だけがおかずとして調理された料理として生まれ、地の根菜や塩蔵によって保存されたワラビやゼンマイを細かく刻み、味噌味で煮込まれた「けの汁」。

当時撮影した写真を見るたびに、未知なるおいしさに出会えた感動が蘇ってきます。
 
一つ一つの丁寧な仕事で作られた料理は、今時のレンチンでは生まれることがない味。手仕事というより地域全体で仕事が施されてた料理。よく「心揺さぶる味」という言葉が使われますが、初めて触れたその味は、自分にとってのそれでした。

青森に導かれて、運命に導かれて

「文献だけでは情報が広い範囲に伝わらない」という思いで津軽料理遺産プロジェクトのウェブサイトを制作。料理写真撮影やブログの制作などを、仕事の空き時間に一人で取り組んでいました。今もデジタルアーカイブ&情報発信元として、サイトを管理しています。

当時、料理を作る側のことを一つも知らずブログを書くことに、違和感を覚えていたこともあって、自己啓発としてフードコーディネーターの資格を取得していました。そんな所以もあって、このイベントで知り合った方から、津軽地方の伝承料理にまつわる事業のお手伝いをする機会をいただきました。
 
最初は、津軽地方の伝承料理の中から10品程度を選んで、◯◯御膳というメニューを作るというものでしたが、そのために文献を読み漁って、自分が「食べたい!」と思った料理をリストアップすると、その候補はなんと400弱。
 
ベッドタウンで生まれた自分にとって、この中から選べる訳なんてありません。むしろ、全ての料理に宿るストーリーを伝えたい。そう感じて、伝承料理を食べて語り継ぐ「津軽料理遺産」プロジェクトは動き出しました。

津軽に初めて訪れた方に「津軽ならではの料理」を、どうやって食べていただくか?という思いをベースに、料理の特長や料理を提供する「伝承店」を紹介するリーフレットや、伝承店の目印となる「招き布」といったツールを制作しました。

携われば携わるほど、東京にいながらにしてプロジェクトを進めることが困難になり青森に移り住みました。春夏秋冬、その地で四季を過ごさないと伝承料理の凄さは理解できないことが一番の理由でした。

書を読めば彼の地の状況は分かるのですが、日々、八百屋さんや魚屋さんに並ぶ商品の状況までは書き残されていませんし、何より、生活者の視点に立たないと本当に料理が持つ意味はわからない。たっぷりと雪が降り積もる冬の日、切れた灯油を買いに行くたびに身体を温める料理の価値が身に沁みました。

幸いにして、伝承料理を多くの方に知っていただくというミッションの成果は、一定のレベルまで達し、当時開発した伝承料理の普及を目的とした駅弁「ばっちゃ御膳」や、東北新幹線・新青森延伸を記念した数多くの駅弁。あるいはご当地菓子の開発など。東京に住んだままの国家公務員には絶対にできない経験をすることができました。もちろん、この経験が今の自分の骨格となっています。 

あの日、何もできなかった自分ができた唯一のこと。そして福島との縁。

 2年間の出向の形で過ごした青森での生活は一旦幕を下ろし、東京に戻ってきた翌年。東日本大震災は発生しました。内閣府は元々事業官庁ではないので、直接的に支援する機会は非常に少なく、自分は被災地の食材や料理を積極的に食べることしかできませんでした。
 
それから約1年後。サラメシで自分のブログが放送されたタイミングと同時ぐらいに、東日本大震災事業者再生支援機構に出向。そこで知り合ったのが福島県の「かーちゃんの力・プロジェクト」でした。

原発事故の避難対象地域に住んでいたかーちゃんたちは、避難先である仮設住宅に住みながら悶々とした日々を過ごしていました。自らが食材を育て台所に立ち料理を作る。避難前、食材と食文化の双方を担っていた女性達ができることは、バラバラになってしまったコミュニティを食で結ぶこと。想像できないほどに大きな被害を受けていたにも関わらず、たくましく前に進んでいたのです。

知り合って活動内容を伺って、自分にできることは何か?考え抜いて唯一できることとして出した結論は、伝承料理を多くの方に知っていただくために青森で過ごした、日々の経験を共有すること。一緒に商品を開発したり今なお福島の地に住むおばぁちゃん方から、伝承料理に纏わる自らのお話を伺ったり。
 
ここでも、地域の中で連綿と受け継がれ培われてきた知恵と工夫を、パンフレットやお弁当のような商品やプロモーションツールにすることで、多くの方に喜んでいただけました。そして、こうした経験を共有することが、自分の人生におけるミッションでは?と考えるようになったのは、この頃でした。
 
「汁に入れる団子は、餅米を3割、うるち米を7割。ずっとこうやってきた。」
 
あるおばぁちゃんが笑顔と共に生地をこねながら教えてくれた一言。これを記録に残していくことがミッションだと。

ローカルフードデザイナーという職業。

「伝承料理をはじめとした地域の食材や食文化を商品・サービス、あるいはプロモーションを通じて知ってもらうことで人と地域を繋ぐ」

2015年に辞表を提出して、4月にローカルフードデザイナーという肩書で始めた仕事は、こういった役割です。

 気候風土という地域の環境の中で人が見出した知恵は自然と結集し、空腹を満たすために調味料や加工品が作られて料理という形に結集される。自然と食材と人の営みが生み出した結晶が、次の営みの為にまた作られる。このサイクルは弱肉強食ではなく、自然という圧倒的強者と共存するために生み出された食物連鎖です。
 
そんな日々を生きるために戦ってきたおばぁちゃんやおじぃちゃんから、当時の暮らしぶりに関する話を伺う機会はあまり残されていません。その一方、ファッションのように短期間で消費される商品は、未来に向けてこれからもどんどん作られることでしょう。
 
だから自分は、伝承料理をはじめとした地域の食材・食文化が持つ本当の価値を伝え、長く愛してもらえる商品やサービス、コンテンツを企画開発し、価値を届けるプロモーションを担わせてもらうことを自分の職業にしました。

公務員という立場では直接的に多くの方のために活動することができなかったので、むしろ、今のほうが公に貢献できている。そう確信していますし、今もその初心を忘れずに一つひとつの仕事に取り組ませていただいてます。